先週、作った車に後輪を追加した。
すると大好評である。
飽くことなく、車を前に後ろに動かしたり、
まどかハウスをガレージに見立てて出し入れしたり、
一人でずっと遊んでいる。
我が家には、なかなか入庫困難な
半地下ガレージがあり、
そこにバックで入る時、
「ピーピーピー」と車は警戒音を鳴らす。
その音が好きらしく、
「ピーピーピー」と言いながら、
この段ボールの車を動かす。
また、
「ピーピーピー」と言いながら
後ろ歩きするのも好き。
配達便が届いた。
新たなる段ボール箱を彼は見る。
妻曰く、
「今度はこれで何を作るの?
という目で見ているよ」
子供の心の望む所、
実に真っ直ぐである。
という訳で、二号車を作った。
一号車は箱に穴を開けるなどして
即席で作ったのだが、
今回は頭の中で型紙を起こしてから作った。
実は、段ボール一枚だけで、
この二号車は出来ているんですぞ。
子のためと言いつつ、
自分が楽しんでいる何よりの証拠です。
まどかは最近、
新たなる言葉、概念を手に入れた。
先週、指一本立てて
「いち」と言うことを覚えた。
そして今週、二つのものを持って
「に」と言うことを覚えた。
ただし、観察マニアの父としてはこう考える。
これをもって数詞という概念を獲得したかどうかは定かではない。
1,2,3…と数を数えるということは
もう少し先にある高度な能力なのではないか、
という気がしなくもない。
では何に対して
「に」と言っているのかと想像するに
「ペア」という概念、
または「両手で持てるという状態」について
使用しているのではなかろうか。
その証拠に、
車と車を両手に持って「に」
ぬいぐるみを両手に持って「に」
と言う。
「数」というのは純粋に抽象的な観念であり、
抽象的な観念は知能にとっては高度である。
これについて思い出すのは
アフリカのさる部族には
1から5までの数字はあるが、
6以上は「たくさん」として一括り、
という話である。
ここから分かることは
体感的、体験的な数と
抽象的で非体験的な数は
実は同じ「数」ではない、ということ。
1歳8か月の子供は
体感的で体験的なものとしてのみ
「数」に触れているのだろう。
「両手で触れられる」ということは
多分に体感的である。
そう考えると、
「に」から「さん」への飛躍は
結構な距離なのではないかと思われる。
観察が楽しみである。
このように
「に」で表し得るものを見つけると
「に、に、に」と言うまどかが、
先日、感動的な風景を見せてくれた。
その時、私と妻はまどかを挟む形で座っていた。
食事をしていたのだった。
おもむろに、まどかは妻の手を取った。
それから私の手を取った。
珍しい行為だった。
そして「に、に」と言った。
私も妻も一瞬、何のことかと思った。
それから二秒ほど遅れて意味が分かって
胸が押し広げられるばかりに感動した。
母の手を取り、父の手を取る、
そんなことは、
彼はこれまでしたことがなかった。
「に」という概念が、
彼にその行為を促したのである。
逆に言えば、その概念を獲得するまでは
父と母の二人に同時に触れるような発想は
彼には湧きもしなかった。
どんなに壊れた夫婦も
(うちは壊れていないが)
こんなふうに示されたら
すぐにも和解が成り立つだろう。
愛に包まれ、愛を思い出すことだろう。
そんな「に」の魔法であった。
父と子、二人の時間が増えてきた。
まどかは私と二人でいると静かである。
お母ちゃんが近くにいると
なかなかお元気な甘えん坊である。
くっついて離れない蝉である。
それだけお母さんが好きなのだ。
子供のみならず人の心というものは
無限の玉手箱のようなものだと思う。
どんな思いも、そこから出てくる。
だから
「この人の前ではこんな自分が出てくる」
そんなことを私たちの心には起きるのではないか。
お母ちゃんといると、
とびきり甘えん坊な心が出てくる。
お父ちゃんといると、
自足していられる心が出てくる。
どちらが良いとか悪いとかいう話ではなくて、
どちらが正常、異常ということでもなくて、
そのどちらをも彼に体験させてやることが
今はとても良い機会提供であるように思われる。
片方に寄せるのではなく、
また「この子はこういう子だから」
と決め付け、待遇を一本化するのでもなく。
植物の種を例に取れば、
一つの方向は、天に向かい、
若葉を出し、茎を伸ばし、花を咲かせる。
もう一つの方向は地底に向かい、
根を伸ばし、広げ、張り巡らせる。
その両方を、私たちの心は辿り、
育んでいくべきなのだろう。
そうすべきだったのだろう。
物事には順序や時期がある。
1歳8か月になってようやく
「父親成分」に対して
彼は反応できるようになってきたようだ。
先日、姉の家を初めてまどかと二人で訪れた。
慎重派のまどかはずっと
(普段ならあり得ないことに)
私の膝の上に座っていた。
しかしおばちゃんにカメラを向けられると
実に楽しそうに笑顔を決めていた。
どちらも、
お母ちゃんがいる環境では決してしない。
新鮮な、彼の姿を見た。
彼にとっても、新鮮だったことだろう。
子供が自分の傍で楽しそうにしてくれているのは
何にも増して喜ばしい。
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