昔読んだ子供向けの本で
いまだに印象に残る物語がある。
名前は忘れてしまったが、
確か岩波少年文庫だった。
ドイツの作品。
少年がいて、おじさんがいる。
このおじさんは、少年に
「生き方」をそれとなく教えてくれる。
それも口で色々言うのではなく、
傍にいることによって
何気なく道を示してくれるのである。
そこに温かな交流を感じた。
「こんなおじさんが自分にもいたらなあ」
と思った。
似た話はチェロ奏者、カザルスの自伝にもある。
育ち盛りの青年カザルスに
「君が良い芸術家になるために」と
読むべきものや観るべきものを
示してくれる、そんな後援者がいた。
やはり思ったものだった。
「こんな人が身近にいてくれたらなあ」と。
私は自学自習だった。
回り道にも意味があるので
自分が損をしたとは思わない。
ただ、年少者の未来を思って
良き道を示してくれる大人、
それを素直に受け取ってすくすく育つ若者-
そんな関係に美しさを感じるのである。
最近、まどかと二人だけで外出することが多い。
先日も買い物に出掛けた。
食べ物や酒を買うのである
(酒を選ばせることこれで三度目)。
本屋では絵本を見せてあげる。
そんな時、安全な場所ならば
私は彼からあえて離れて一人で歩かせる。
すると無心に後ろからついて来る。
ここには一つのコツがあって、
手を取ると、「抱っこ」という要求が湧くのだが
ある程度距離を取ると「抱っこ」にはならず
自分で歩く気が、彼の心に生じるのである。
更に言うと、適度に振り返らない。
これは絶妙な距離感で、
シーソーのように、
ちょっと重心を片方に傾ければ
そちらの方に物事が流れるようになっている。
振り返らないと言っても、
勿論、無関心なのではない。
安全のためには目を離さずにおきたい、
それが本心なのだ。
しかしそれではシーソーは「抱っこ~」の方に傾き、
動きを止めてしまう。
小さな冒険を沢山与えてあげたい。
ニキーチンというロシアの幼児教育家がいる。
本を読んだことはないのだが
間接的に知ったその人の言葉で印象に残ったのは
「子供から目を離すことによって
親から目を離さない注意深さが子供に身に付く。
いつも親が目を離さないでいれば
子供は安心して親から目を離してしまう。
だから迷子になるし、危険な目にも遭うのだ」
実に、慧眼である。
とは言え、子供をほったらかしにして
完全に注意から外してしまえば
どんな危険があるか分からない。
子供にはあえて背中を向け、追わせ、
しかし背中で子供の見守る。
(時々振り返り、横目に確認する)
すると、まどかは
「こんなにも歩けるようになったんだな」
と感心するほど、
覚束ない、しかしそれ以上に頼もしい足取りで
親を追いかけてくるのである。
その時、よく見るような
「待って~」という
苦しみに満ちた声も顔色もない。
ただただ無心なのだ。
なんと純粋無垢な存在なのだろうと
胸打たれる。
そんなまどかを見て
店員さんが「かわいい~~…」と
優しい声と眼差しを向けてくれる。
自分が見るのを封じる分、
他の人が見てくれるものだな…
と思ったりもする。
鴨の親子のような交流である。
後をついて歩かせる。
時々振り返るも、常には見守らない。
動物は自然の理を生きている。
そしてそんなことをしている内に
父と子の間に心の繋がりが出来、
その糸が時と共に太くなっていくのを感じるのである。
更に先日は、野外幼稚園にも
父と子二人だけで行ってみた。
妻はちょっと体を休める必要があったのだ。
「いつもと様子が違う!」
異変を感じたまどかは母から離れようとしなかった。
しかしこの子は物分かりが良い。
というか、気持ちの切り替えが実に爽やかである。
いざ出発となると、あとはもう
母ちゃんがいない寂しさの影も見せず、
父と二人の時間の中で楽しんでいた。
暫く前まで、彼の世界には
「母」と「母未満」しかいなかった。
だから母がいない時は
父で我慢するか…
または父では我慢ならなかった。
そういう時は父にはまだ出番がなかった。
しかしやはり知性の発達の為せる業なのだ。
母と父が彼の心の世界で並び立つようになってくると、
「母とだけ出来ること」
「父とだけ出来ること」
が、互いに分離して明瞭になってくる。
「快/不快」の二分法から
「母との快/父との快」という二分法に移っていく。
これは凄い変化である。
その一つの表れとして、
今までは母の名前を呼ぶことがなかったのだが、
遂に呼ぶようになった。
ある時期までの子供にとって
母と自分は同一なので、呼びかけの対象にならないのだ。
ではどうしていたのかと言うと、
「アイアイアイアイ…」とか
「イヤイヤイヤイヤ…」とか言っていた。
これは大人語で言えば
「ねえ!ねえ!ねえ!」
というようなもので、
名前を読んでいる内には入らない。
ところで母を彼は何と呼ぶのだろうか。
「い!」
ちなみに私のことは
「お!」
はじめはドロドロと区別もつかず浮遊していたものが
次第に天と地に分かれ、
空に星が、地には陸が姿を現す…
世界中の神話がこうしてまさに始まるように、
子供の言葉はこうして次第に分かれ始め、
精神世界を形成していくのである。
もっと書きたいことがあるのだけれど、
また次回。
ところで…
妻「お父ちゃん、この中にいるかなあ」
まどか「お!」
指差したのは…
一番上の右から二番目。
心眼である。
2 件のコメント:
写真の人はイスラムのグルでしょうか…。面白そうな本ですね。そして今回もまたとてもさわやかで微笑ましい記事で、これぞ日曜日の朝にふさわしく感じ、こちらの心も軽やかになりました。
何者でしょうね。しかし我が息子は真を見る眼があります。
ご感想ありがとうございます。
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