2021/08/29

ファラオくんとぼく

ファラオの話をした。
 
約束通り、後日絵本にしてあげた。
だいたいあらすじを言うと
こんな話である。

ファラオくんは大きな石のおうちに暮らしています。
まどかくんは訪ねていきました。
「こんにちは。何してますか?」
「ふわあ、ぼくずっと眠っていたみたい」
「どれくらい?」
「3000年」
「すごい!」
「まどかくんはどれくらい眠る?」
「10時間」
「すごい(短くて)!」
二人は意気投合して色々お話する。
そしてお別れする。

そういうお話。

ツタンカーメンをデフォルメして、
ファラオくんとした。


「ねむいねむい」の所はこんな感じである。



石棺ではなく木製ベッドにしたが
ちゃんとヒエログリフ(神聖文字)が
書き込まれている。
またファラオ君は猫のぬいぐるみを持っているが、
それはペットとしての猫はエジプト発祥だからである。

将来にわたって彼に知恵がついてきても
なお酌む余地をひそかに散りばめている。
まあ、自分が楽しくてやっているだけなのだけれど。

これで絵本は3冊目。
気に入ってくれているようで、
毎日それぞれ数回は読んでくれと言うらしい。



子供の将来を思うと、
色々準備しておきたいと思うことがある。

例えばピアノだが、最近私は熱心に練習している。
勿論第一には自分の喜びのためにやっているのだけれど
私が当たり前にピアノを弾いていれば
「ピアノってのは弾けるものか」
と、まどかは自然と感じ取ることが出来る。
また私が和歌を暗唱すれば
「和歌ってのは諳(そら)んじるものか」
とまどかは自然と感じ取ることが出来る。

ピアノも和歌も、生きていくためには必要ない。
しかし教養の奥行きは人間性を豊かにする。
そして学びというものは押し付けるのではなく、
自然とそこにあって
呼吸するかのごとく心の中に入っていくのが良い。

彼が8歳くらいになった頃を一つの目標地点として、
今、自分の知識や経験や習慣を蓄積していくのが望ましい
と私は考えている。
あと6年もあれば、
私ももっと内容のある人間になっていられそうだ。


私の幼少期には
「見本」や「目標」のようなものがなかった。
だからさながら枝葉を伸ばすつもりのない植物のように
時間を無駄にしてしまった。

まどかには
「ああなりたい」とか
「あれもこれも人間には出来る」
ということを早い内から感じておいてほしいし、
そのために、ささやかながら自分が
身近な見本を演じたいと思っているのである。


それにしても…
と時々思うことがある。
子供の頃、よく父や叔父に
高い所や水辺から突き落とされそうになった。
皆さんも体験があるのではないだろうか?
あの時代の人はよくそういうことをした。
勿論、遊びでやっているのであるが。
それと髭ずりずりとかくすぐりとか。

意味不明な神経である。

ある時私は瞑想していて、
自分の中のリンパ腺に走っている緊張に、
どうもあの子供時代の瞬間的な恐怖が
沁み込んでいるのを認識した。
あれはやはり、良くないことなのである。

そういうことをして
彼らからして見ると、
世の洗礼を受けさせているつもりなのだ。

人間は受けたことを次の世代にするものだから
彼らだけを責めるつもりはないのだが、
考えてみると父親が子供をいたぶるというのは
はるかな昔から人類のお家芸なのである。

古代ギリシャ神話において
クロノスは自分の子供を次々と貪り食った。
将来、自分を脅かすと思ったからである。
だから子・ゼウスはクロノスを殺す以外に
生きる道はなかったのである。

似たような話は他にいくらもある。
こういう物語を人間が思い付くのは
やはり根底に、父に対する子の恨みがあるからなのだろう。

これは父目線が語る物語ではなく、
子の目線が語る物語のはずである。
なぜなら最後に父は殺されてしまうのだから。

するとやはり子は父にいじめられて嫌だったのではないか。
それなのに長ずるにつれ不感症になり、
子をいじめる側に立つ。

今、父子の話をしたが
男女問わずである。
人類はずっとこんなことをしている。
されて嫌だったことを飲み込み、
感覚を麻痺させ
「俺だって私だってこれくらいは耐えたんだ。
おまえだって耐えてみろ」
と迫るのである。

それはそれで
皮膚を厚くしていくことで生存を図る
文明の在り方なのかもしれないが、
果たして必ずそうでなくてはならないのか?
そこで私はアメリカ先住民族の言葉を引く。

子供にはゆっくりと優しく話しかけることだ。
理由もないのに叱ったりしてはいけない。

もしも子供が言うことを聞かなかったら
こう言うのだ。
「こっちへおいで。
水の中に投げ込んでやるから」
それでも子供が言うことを聞かなければ
もう一度同じことを言う。
三度言ってそれでも駄目だったら
子供をさっさと水に投げ込むのが良いだろう。

しかしその子が泣いて謝ったら
子供を許してやることだ。(1800年、セネカ族)

ここには実に思いやりに満ちた観察眼がある。
まず子供を無闇に傷つけてはいけない。
しかしそれは甘やかすこととは違う。
教えることは教えなくてはいけない。
しかし子供はまだ言葉で全てを理解する準備が出来ていない。
だからそのために物理的な懲罰が必要なのだ。
物理的な懲罰は勿論、大人の気分を晴らすためではなくて
それによって手短に子供に教えるためだ。
子供はそっちの方式の方が飲み込み易いから
あえてそうして「あげる」のである。
正しい懲罰は怒りの発散ではない。
子供に教えることが目的なのだから
その目的を叶えるために大人に怒りは必要ないし、
子供が理解したならすぐに許してやれるはずである。


こうして比較すると
私が子供の頃、
水の中に落とされそうになったことには理屈がなかった。
ただの遊びだったのである。
大人にとっては遊びだが、
子供にとっては恐怖である。

こうして子供は理不尽ということを学んでしまう。
理不尽を学べば、
必ず他人にも理不尽な仕打ちをするようになる。
私も随分そういうことをしてきた。
だからこういう「教化」こそ
恐れるべきなのだ。


なぜこんなことを徒然と書いたのかと言うと、
まどかを高い所に座らせている時
「わっ」と揺らして驚かせるような発想は、
自分にはないなあと思ったからである。

先日のこの写真。
真下は階段。
落ちると痛い(はず)。

「わっ」なんてことをされないから
安心しきっている彼がいる。
そんな彼の安心を感じていると
不思議な気持ちになってくる。

今日はまどかのことより
自分の考えばかり述べてしまった。

ともかく、そんな目でまどかを見ている。

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