2020/07/07

読書日記#4『明るいチベット医学』

もうかれこれ14年くらい前から本棚にあった本なのですが、
誰が買ったのかな?
読んだことがありませんでした。
刊行は1988年。

チベット仏教を学びに行った日本人僧侶が現地で密教僧になり、
住み着く。
チベットでは密教僧=医者です。

その医療体系は西洋医学とも中国式東洋医学とも違う独特のもので、
こしき的に言えば、エーテル体専門。
アストラル体もメンタル体も、その基礎は健康なエーテルであるがゆえに、
という考え方ですね。

このチベット医学の治療観、僕のそれとも非常に通じるものがありました。

同じ自然療法という枠組みの中のことですから、
当たり前と言えば当たり前なのですけれどもね。

自然療法系の治療師や医師の言葉で感動することはあまり無いです。
同意は勿論しますが、
でも自分でも分かっていることなので
「だよね。やっぱね」くらいの反応が大概です。

しかしこの本は違った。

例えば

「チベット人では人骨を装具や笛にするのですが…」

もうこの時点で凄いのですが(笑)

「…チベット人は骨がしっかりしているので良く鳴る笛が出来る。
その点、日本人の体を見ても、良い笛になりそうな骨はない」

「死んだら骨をくれと予約を取りたい日本人は、
残念ながらなかなかいないものです」

など、そういう文化背景からしか出てこないような神髄を突いた言葉が
ちりばめられています。

この本は、チベット医学の基本的な生命観から始まり
赤子の誕生、乳児期の扱い方に特に頁を割き、
成人の病気についていくらか、
そして最後に死について非常に感動的に語っています。

乳幼児期のことに関しては、
僕と菜嘉の出産・子育てが、この現代東京にあって限りなく自然の摂理に近いものを達成できていることに改めて安心と感謝をする一方で、
なお不足のあった自分の至らなさや反省点を痛感しました。

生まれてくることの素晴らしさ、
人生を始める最初の数日、数か月、1年、2年のなんと大切なことか。
これは日本で語られる声からはちょっと学べない内容だなと思いました。

勿論、日本人にも素晴らしいメッセージを伝えている方はいらっしゃいますが、
それは(僕も含めて)個人的なものです。
一方、歴史の中で連綿と培われ、維持され、
文化の中で共有されているような優れた見解は、やっぱり深みが違う訳です。

そういう言葉には、前頭葉のさかしらなでっぱりじゃなくて、
脳の奥深くの奥深くで感じるものがあります。

「本人の治ろうという気持ちが体の上で戦っている間は駄目なのです。
苦しみをどうにかしたいと考えている間は体の質が乱れている。
葛藤している中では本当の生きる勢いは出てこない」


そしてとりわけ感動的な、死について。


「死にゆく人のベッドは大きな樹の下に置かれます。
目を上げれば花が咲いているのが見え、鳥の声が聴こえます。
朝は空が白んで、日が昇るにつれ自分の体も目覚めてくる。
夜が明けると大人も子供もやってきて 
「おじさん、ゆうべは何を考えた?」と尋ねます。
眠りたくなったら寝かせてあげる。
起きたら何を考えたか尋ねる。
そうして死とはどういうものか学び、伝達していく。
あんまりその言葉が素晴らしかったりすると書き留めて、
あとで曲をつけて歌ったりすることもあります」

こんな豊かな死を迎えることは日本では無理でしょう。
でもこんな死を傍らに知りながら、この生を全うしたいものであります。

(読了7月3日)

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