2021/07/18

子供の輝き、子供の真似

子供を見ていると、
一つ気付くことがある。

それは、
喜んでいる時、知性は最も発達する、
ということだ。

勿論、発達というのは
長い時間をかけて辿ることだから、
喜んだ瞬間、知性が発達する
というのは、言い方として正しくない。

しかしその時間の行く先を見ると、
ああ、こうして喜んだ時に発する光が
ボールのように未来に転がっていき、
闊達な知性や人格の出発点となるのだな、
と素直に頷けるのである。

子供は何に喜ぶのであろうか?

個性は元より色々だと思うが
まどかを見ていると
自分が誰かを喜ばせている時に
最も彼自身が喜んでいる、
ということに気が付く。

まどかは慎重派なので
初めは人見知りする。
固まってなかなか動かない。
大きな目玉を見開いて
じっと相手を見ている。

しかしふとしたきっかけに
遊びの余地が生まれると、
彼は「いないいないばあ」と始め、
もはやその時点で、
「遊んでもらう側」ではなく
「遊んであげる側」に立っている。

そこには、
自分は人を喜ばせることが出来る、
ということへの確信があるのだ。
そしてひとたびそうやって心を開くと
彼の無邪気さと快活さは
何者にも邪魔されることなく
光を放ち続ける。

そのような時間を過ごしている時、
これは直感的にそう思うのだけれど
彼の小さな脳の周波数が一気に高まり
知性を増進させているのだ。

逆に、子供を叱りつけてばかりいるなどして
子供に陰鬱な顔をさせるようになってしまうと
子供の知性の発達は遅れるのではないだろうか。

この知性というのは何かと言うと、
学問的なことばかりではなくて
本質を掴む力とか
体を自由に動かす柔軟性とか
そういうあらゆるものに通用する
「あ、こうするのね」という理解力だ。

この理解力が低いと
何をやっても上手く行かず
へまをやらかす。

別に器用でなくてはいけない理由はないけれど、
失敗体験が多すぎると知性は成長を遅らせる。
不器用でも朗らかでいられるなら
全然問題はないけれど、
自分を振り返ると
不器用だったことは自信を育てなかった。

強さ、賢さ、自信、といったものは
同じ高さの柱なのだ。
その高さは嫌でも等しくなる。
そしてその上に「自分」という屋根が乗る。



子供は学習することに全てを捧げている。
とにかく真似をしたがる。
何でもと言う訳ではないが、
面白いものを真似するなあ、
と思うことが多い。

例えば電車が通ると
「ちっちっちっち」と舌打ちをする。
大人だったら「がたんごとん」という
あの電車の音の真似をしているのだ。
これは完全に彼独自の模倣で
なるほどなあと感心する。

車が後進する時の
「ぴーぴーぴー」については
先日述べた通り。

また鉛筆とかリモコンとかを
飛行機に見立てて
「ぶーん」と一人で空中を走らせたりする。

こういう動作は
一体どういうからくりで
生じるのだろうか。

そういうことをしている時の
静かな、半分別の世界に向けられているような眼差しを見ていると、
これが人間の始まりの姿なのだ、
ということを思わされる。

『もののけ姫』という映画がある。
その中にこだまという妖精が出てくる。
一匹(?)のこだまが「カラン」と首を揺らすと
他の無数のこだまたちにその動作が伝染していって、
森中がカラカラカラカラ…とざわめき出す。

何とも言えない可笑しみを覚える名場面である。

なぜ真似たのか?
多分、誰も知らない。

しかし心が通じ合っていると、
一つが動けば他も嫌でも連動してしまう。

人間も、鈍いながらもこの同じ感覚を
持っているのではないだろうか。

人間の場合、
真似から進んで学習に至る。

世界を虚心に見ていて、
面白いと思うと我知らず真似が始まり、
いつしかすっかり癖になっている。

そうして世界に一つだけの人格が
次第に構成されていくのだ。



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