「左半身、ちょっと下に引っ張られている感じがします」Uさん「実は週末に左足首を捻挫していて、歩けばするけどまだびっこひきひきなので、その影響かと…」
「凄い!どうしてそんなことまで分かるのだろう…」Uさん「私のセリフですね!(笑)」
「肩を両側面からちくちくされている感じ…最近怒りを覚えたり、こらえたりする場面などはあったでしょうか」
Jさん「ご指摘どおり、実家で日々怒りをこらえていました」
やはり体は嘘をつかない。
思うに怒りには二種類ある。
一つは頭に昇る怒りで、もう一つは上腕を掴む怒りである。
で、私なりの自己経験からの解釈なのだが、頭に昇る怒りはしばしば自分の感情や思い込みをその源としている。
そのような怒りは、共感は出来るかもしれないが、その怒りを引き摺っていては人格の成長は見られないような怒り、または自分にも多分にある非を無視した上での怒りであったりする傾向があると思う。
そしてこのような怒りは脳卒中とか脳溢血とか、何らかの症状に至り易い。
もう一つの上腕を掴むような怒りはそれとは別で「神の怒り」と私は理解している。
神の怒りとは、人間のエゴに基づく言動に対して向けられるものだ。
私も時々、このような怒りを覚えることがある。
振り返ると、それは大体、不正や虚偽、状況を余計に複雑にしたり混乱させたりするような行為に対する怒りなのである。
自分もそのことで確かに怒っているが、それ以上に何らかの霊が怒っていて、それが自分に憑依しているのを感じる。
これを抑えるのは大変だが、だからと言ってそのまま人相手にぶつけると破壊力があり過ぎる。
何らかの穏便で建設的で、それでいて神をないがしろにせず、余計な争いを人との間に生み出さない方法を、自分で模索しないといけない。
人間の役目はなかなか大変な役目だ。
神の道に入ると――別に出家しろとか何かの宗教に没頭しろとか、菜食主義者になってマントラを唱えろとか、そういうことは言っていない。ただ人と同様、時には人以上に神を尊重し神に従う生き方を自分の願望と責任においてすることだ――こういう「お勤め」をすることになる。
すなわち、神の感情が入ってくるようになるのである。
Jさんの怒りの理由はこうだった。
「偏食で我儘な弟に精いっぱい工夫をして食事を作っても、気に入らなければ平気で残すのです。
おじじの教えに反していますが、食べ物を残して平気な神経には腹が立ちます」
食べ物を粗末にすることは、神の怒りに充分相当する行為である。
しかし諸々の理由や目的によって、神罰というのは当人には直接下らないようになっているのだ。
ここで生じる未解決のエネルギーを、誰かが引き受けることによって、それが学びに昇華されていく。
霊的人間はどうやらそんなことをしながら成長を重ねていくようだ。
…と書いたが、私の個人的体験からの解釈である。
エゴ100%の怒りで上腕に来る人もいるかもしれないし、神の怒りが頭に来る人もいるかもしれないので、断言は出来ません。
が、少なくとも怒りに上述二種があることだけは確か。
体験談のある方は教えて下さい。
①できればLINEで:atelierkoshiki
②microcosmo.healing@gmail.com
③090-9309-1217
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