霊的な道を生きていると(皆さんのことです)、一生涯、変化がついて回る。
「ここで終わり」というのはない。
「最近は調子が良くて、特に精神的にストレスもなく」
「以前はあった心の迷いも、今は感じなくなりました」
――という言葉自体を私は否定する訳ではないけれども、この言葉はいわゆる「フラグを立てて」いる。
つまりその言葉が出た時はだいたい、新たな、より深い問題に対して洞察が及んでいない時なのである。
私たちの多くは幼少期から、内面において決して穏やかではない道を歩んできた。
これは文明の致し方のない負の傾向というもので、その犠牲にならずに済んだ子供を探す方が難しいと思う。
多くの子供たちは世に染まって「幸せの形」を得たが、一部の子供たちは世に染まることを良しとせずに大人になった。
人生は非常に苦しみに満ちた場所に見えるので、出来ることなら安全圏に退避していたいという願望がある。
その退避願望が、私たちに「最近は心の迷いがなくなった」「ストレスがない」という言葉を積極的に語らせる動機となっている。
逆に言うと、
「いや、いつまでも煩悩はあるものだ」
「生きている限り反省と成長は続く」
と言われたら
「もう勘弁してくれ、私は充分疲れているんだ」と言いたくもなるだろう。「私はもうその辺りのことはクリアしたんだ。あとは平穏にこの調子で生きていくんだ」と。
これが先日お話した「距離を取ったことによって得られた達観」の正体である。
しかし植木鉢一つの中の小さな自然界を見ても、それは考え違いだということが分かる。
成長しない植物がどこにあるだろうか。
生きている限り生まれ変わり続ける。
飽くことなく新たな芽を出し、葉を開かせる。
季節が廻り、上手く行くと花を咲かせることもある。
しかしそれは必ず朽ちて、枯れ落ちる。
一方、見えない地下では根を張り続けている。
どうかすると途端に元気を失うことがある。
全ての葉が落ちて、死に絶えたかと思う。
しかし春になると思い出したかのようにまた芽を出す。
そんなことがある。
変わらない平穏を楽しむことを許されているのは死者だけである。
生きている者はいつも成長変化し、新陳代謝し、その活動のいくらかは痛みや苦しみを伴う。
折角つけた葉や花を落とさなければならない時もある。
そんな時、私たちはこの葉、この花を失いたくないと願う。
これを煩悩という。
ストレスがないこと、心が苦しくないこと、迷いがない状態に至るを「ゴール」としないように(勿論、仏陀はそのような状態をゴール(悟り)と言ったが、それについてはまたいずれ説明しよう)。
なぜならストレスがあること、心が苦しいこと、迷いがあることは、植物の新陳代謝のように、人生のありのままの姿であるから。
そして何より、私たちの人生にゴールはないからである。
この小さな花束の中にも、元気に咲く花、しおれた葉、まだこれから花を咲かせる蕾、痛みつつある茎、濁った水が共存している。
私たちの心もまた同様に、一色塗りに幸せである必要もなければ穏やかである必要もないのだ…
【スケジュール】
9月10日(土)魚座満月
9月11日(日)11時、体操教室を開きます。5000円。昼食付。満席
9月23日(金祝)秋分ヒーリング(セットお申し込みで特価2000円)
同日 11時ー瞑想教室(オンライン2000円/アトリエ5000円)
9月26日(月)天秤座新月
●無料電話相談室やっています。体の悩み、心の悩み、何でもご相談下さい。
●毎日無償の遠隔ヒーリング「こしきの輪」是非ご入会下さい。
●真呼吸会は毎週日曜10:00~10:20。
無料です。YouTubeにチャンネル登録して頂くと便利です。
⇒『真呼吸のすゝめ』を読む。
【メニュー】
①アトリエでヒーリング 10000円
②ビデオ通話でヒーリング 8000円
③ビデオ通話なしで遠隔ヒーリング 5000円
*学割、子供割あります。
*出張も承ります。
●ヒーリングアクセサリー「プレローマ」36,000円
【お問い合わせ下さい】
①できればLINEで:atelierkoshiki
②microcosmo.healing@gmail.com
③090-9309-1217
①できればLINEで:atelierkoshiki
②microcosmo.healing@gmail.com
③090-9309-1217
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2 件のコメント:
いつもお導き頂き、ありがとうございます。
なるほどそれは…「盆栽」ですね。
ある映画で「人生は苦しみに耐えること」という科白があり、どう受け止めたら良いのか?と長年スルメの如く噛みしめ続けていたのですがお陰様でまた深い味わいを知ることが出来ました。
タフに生きられそうです。
Yurieさん
私はその言葉が真実だと思います。
そしてそれ自体を苦しみと思わないことですね。
つまり苦しみに耐えるのは当たり前(であり、実はそのおかげで得るものが膨大にある)、という発想です。
するめの味が尽きた頃、新たな味わいが投入されるので、一生飽きないと思います。
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